頭の、ずっと奥に残る記憶がある。

遠く、朧気な記憶。

それはもはや、映像のように甦る「思い出」というものよりも、知らず知らずのうちに思考の一部に組み込まれている、「感覚」と呼ばれるものに近い。
すべての間違いは「あの時」にあるのかもしれない。
そう理解しつつ、忘れてしまいたいとも、間違っているとも思えない、この「記憶」。
それが、夢魔の性質によるものなのか、それとも愛情と呼ばれるものなのか。
それすらも、分からないけれど。

――後者であればいい、と。

今でも。そう、思えるのだ。

「ねぇオルフェ、あなたが大人になっても、私たちがおじいちゃんおばあちゃんになっても、あなたはずーっと私たちのかわいい子供よ」
そう言いながら僕の頭をなでた母は、目を細めて幸せそうに笑う。

この人は、幸せそうに笑う人だった。

冬の寒さで、窓が真っ白に結露していた。
そこに映る橙色に揺れる蝋燭の火が、暗い室内をゆらゆらと照らす。
温かいはずのその色が、まだ小さかった僕には少し怖くて、ベッドの中で一人眠るのが苦手だった。
それでも眠ることが嫌いではなかったのは――優しく寝かしつけてくれる、両親の声が好きだったから。
蝋燭の橙色よりもさらに温かいものが、そこにあったから。

「……ずっと？」
「そう、ずーっと」
「えー、やだぁ！ぼくだって大人になるもん！！ずっと子供じゃやだぁ！！」

あなたは大きくなれないの、そういわれた気がして、幼かった僕はとても不満だった。
僕自身はごく当たり前なことを言ったつもりだったが、母にとっては予想外の反応だったらしく、「あら」という形に口が動く。
ぷぅと思いっきり両頬を膨らませて不満を表すと、その頬を母が楽しそうに包み込んだ。

「ふふふ、そうね、オルフェもでっかくなりたいものね。ずっと子供じゃ嫌かしら」

そうだよ！
そう言おうと思ったが、母がこつんとおでこを合わせてきたので、びっくりしてついつい黙ってしまった。

「ママ？」
「……でもね、オルフェ。あなたは、私たちの恋の結晶なの」

目をつぶったまま、ゆっくりゆっくりと紡がれる言葉。
母の、僕と同じブロンドのまつ毛が影を落としていた。

「こい？」
「そう、恋」

聞きなじみのない言葉を、舌ったらずなまま自分の舌に乗せて音にしてみる。

……なんだか、わくわくしたことを覚えている。
意味なんて分からない。
でも、キラキラした、ずっと見ていたくなるようなものだと。
――そのときの僕にはわからなかったけれど。
きっとあれは、僕自身が両親を見ていた感覚だったのだ。
キラキラして、ずっと見ていたくなる――

「……この世界で、最も綺麗な感情」

そう言って母は、となりでいびきをかく、寝汚い父を見、また幸せそうに笑った。

「あなたは、私たちの、この世界でいっちばん綺麗な『恋』って感情から生まれた、大切な大切な子」

僕のものとは違う、エメラルド色の瞳が、綺麗に揺れた。
その中に映る僕自身。

『こい』に関係するものだというそれがすごく気になって……いつも見ているはずの自分が、突然とてつもなく特別なものに思えて、僕はそれを一生懸命覗き込んだ。

「ぼくは、とくべつ？」
「そうよ、特別。特別で、大切」

そういうと母は、小指をひょこりと差し出した。
母が動いたことで、ベッドの中に冬の冷気がひやりと入ってくる。
それに僕が少し身体を震わせると、母は残った左腕で僕をぎゅっと抱きしめてくれた。

「……だから、大人になっても、子供じゃなくなっても。ずーっと私たちに大切にさせて頂戴ね」

そのとき、何を考えたかは覚えていない。

幸せだと感じたのか、温かいと感じたのか。　寒さが消えたと感じたのか。
それでも、子供ながらに僕は思ったはずだ。

この時が、続けばいい。

そして――母のようになりたいと。

「たいせつ……うん！いいよ！ママがそうしたいなら、ぼくずーっと子供でいる！！」

布団がめくれるほどの勢いでその小指を取った僕に、母はまたクスクスと笑った。

「あらあら、ふふっ、大人になりたいんじゃなかったのかしら？」
「どっちも！どっちもなる！！大人にも、子供にも！どっちも！！」
「それは素敵だわ！いい考え！」
「ふふっ、でっしょー！！ぼくすごいんだから！」

布団を直しながら、褒めるように再び、今度は両腕で抱きしめてくれた母の温もりに、意識を預ける。
揺れる橙色の炎は、もう気にならなかった。
もっと、気になることがあったから。

「だから……」
「だから？」
「…だから、ぼくにも、こい、できる？」

半ば夢現になりながら、僕は母に聞いた。

見てみたかったのだ。
いつも幸せそうな、大好きな母が、この世界で最も綺麗だという感情を。
そんなに不安そうな顔をしていたのか、母はそっと僕の頭をなでた

「できるわ。……ううん、ぜひして頂戴」

ゆっくり、ゆっくりと。
体温が触れていく感覚。
心地いい包容感。
自分の意識が、どろりと甘く溶けていく感覚。

「ねぇオルフェ。私たちは、夢魔の血筋。夢魔は淫魔。……愛を司る魔族」

優しい母の声が、体に心地よく響く。

「だからあなたも、愛で紡がれてきた家族を、血筋を、誇りをもって愛して。……そして、あなた自身も、あなたの愛を見つけて。……幸せな、美しい恋を見つけてちょうだい」

「私たちが、愛しいあなたを得たように」

「……？あいを、かぞくで……いん……？」

子守歌のように、夢の漣のように響くその言葉を、僕は理解することができなかったはずだ。

それでも、その言葉は。
祈るように紡がれた、母の言葉は。
僕の記憶に確かに残ることになる。

「ふふっ、まだちょっと早かったわね。大丈夫よ、あなたなら何も言わなくてもきっとわかるわ。何も言わなくてもわかるような……幸せな家族に、なりましょうね」

「おやすみ、オルフェ。……また明日」

　美しい恋は、みな幸せなものであると。　　そう信じていた、小さな僕へ。

【小説】ちいさなぼくへ【すがじ】